映画連峰

炎上も見方を変えればのろしになるという人の認識について考えされられた映画

舞台はスウェーデンの
美術館。

劇中に現代美術の作品が
ところどころ出てくる。

この映画の主題でもある、
ザ・スクエアという、
新しい企画の目玉作品。

この正方形の中では、
人は平等で、やさしさをもって
うんぬんというのが、
作品のメッセージなのだが、

実際は、その作品をめぐって、
主人公であるキュレーターは、
嘘や裏切りを重ねていくことになる。

今回は
炎上も見方を変えればのろしになるという
人の認識について考えされられた映画
「ザ・スクエア 思いやりの聖域」について。

スクエアという公共の場所で、
平等や優しさを発揮すれば、
その外側では何をしてもいいでしょ?
という状況に現実ではなることが
多いことを示しているように思える。

ザ・スクエアは、
地面に四角い白い枠が設置される
だけの展示なので、展示自体は地味。

その地味な展示に
お客さんを動員するために、
戦略的に、社会的弱者を使って、
ザ・スクエアと真逆のメッセージである
暴力に訴えた動画を作る。

そして、その動画が、
主人公の知らないうちにバズって
炎上するシーンがある。

プロモーションという枠(スクエア)
から見れば、多くの人に影響を与え、
大成功したと言える。

けれど、スウェーデンという、
王室を頂点とした階級社会で、
物乞いという社会的な弱者を攻撃する
メッセージを発することは、

スウェーデンという
社会という枠(スクエア)の中では、
タブーをおかしたことになる。

炎上とは、
所属する枠の数だけ
火種があることを意味する。

ネット社会になり、
小さな無数のコミュニティが
生まれている状況では、
その枠は増える一方。

そうなれば、火種は増える一方で、
炎上が多発するのも当然と言える。

この映画は、
そういった枠の数だけ
火種があること教えてくれる。

そして、この映画が
もうひとつ提起するのが、
枠を越えることの重要性とバランス
ではないだろうか。

現代美術が
たくさん登場するのだが、
作品自体が、既成概念から
脱却したところに
価値があったりする。

ゴリラになりきる
パフォーマーが出てくる。

確かに、
このパフォーマンスを観れば、
人間とゴリラの違いや、
人間がどういった存在なのかを
考えるきっかけになる。

けれど、その既成概念から
脱却しすぎてバランスを崩すと、
考えるきっかけどころではなくなる。

非常にいい例が、
晩餐会でのパフォーマンスシーン。

晩餐会の前に
パフォーマーが登場して、
自分が、この場所で一番だと
認められないと気がすまない
雄ゴリラになりきる。

招待客も、服従の姿勢を見せないと、
雄ゴリラが調子にのってくる。

調子に乗りすぎて、
招待客は怒って帰ったりする。
それでも、パフォーマンスは
終わらない。

しまいには、女性客に
ちょっかいを出し始め、
本能のまま生殖活動をしようとして、
招待客に袋叩きにあう。

このシュールな場面を
観るだけでもこの映画を観る意味が
あると思えるくらい、
かなりインパクトのあるシーンに
なっている。

このシーンが印象に残るには、
やはり、その異様さにある。

美術館で展示されるものは、
すべて美術作品だという、
共通の認識がある一方で、

パフォーマンスだからと言って、
越えてはならない一線もある。

共通認識と越えてはいけない一線
というバランスを司っているのは、

結局のところ、
家族や、地域社会や、
会社や、組織や、
国という枠ではなく、

自分自身の中にある
良心あるのだと思う。

けれど、いつでも、
自分自身の良心に
従えるわけではない。

組織で責任ある立場にあり、
好き嫌いに関わらず、
社員をクビにしないと
いけなかったり、

親が、子どもに対して、
好き嫌いに関わらず、
あれこれと口を
出さないといけなかったり、

立場で行動したり、
発言しないといけない場合がある。

そういった枠の中で、
自分自身という枠の
バランスを欠いてしまうと、

ゴリラパフォーマンスのように
修羅場になったり、
少年に犯罪の濡れ衣をきせて、
良心の呵責にさいなまれたりする
はめになる。

何をどうすればいいのか
具体的に提示してくれる
作品ではない。

けれど、
最終的な判断の拠り所は、
結局、自分自身の
良心ではないですか?

そう訴えかけられているような
映画だった。

自分の本心とは、
違うことをしないと
いけない状況になっている時に、
もう一度観てみたい作品

by カエレバ